エミールガレを語ろう。 -2ページ目

企業家としてガレはどうなのか

ガレの使用した商標「ロレーヌ十字」、その意味する場所ロレーヌは恵まれた交通上の位置と豊かな地方資源が故に、昔から帰属をめぐって争いがたえませんでした。そんなロレーヌ地方を愛したガレは自分の作品にロレーヌ十字を使用し、外国製でもなくフランスのパリ製でもない、ロレーヌ製であるという意味をこめてロレーヌの芸術の旗頭となっていったのです。

万国博のおけるガレは、人目を引くためのオブジェを作成して行き出品作の中央に配置したり、わざわざ窯をその場で再現して、製作現場を来た人に見せるなど今で言うプレゼンをその時代から積極的に行っていたのです。それだけでなく、自身の作品を解説した冊子まで用意してくばったのだそうです。

ガレは芸術家でありまた優れた企業家でもあったのです。

こんなことからも分かるのですが、現存しているガレの作品は全てガレが手をかけた作品ではないのです。ガレはこの時代すでに分業を進めており、何百人という職人を使っていましたから、ガレがまったく手を触れていないガレの作品が多く存在していることは認識しておくべきでしょう。

gallefactory

ガレのガラス工場

ナンシー派

アールヌーボーの中心地というと、勿論パリであるが、このパリと並ぶもう一つの中心地として、ナンシーがあり、ガレはその地で活躍をしていたのです。

 

ナンシーはパリのリヨン駅からスイス方面行の急行で3時間あまりで行けます。とくにこのナンシーで展開したアールヌーボーは『ナンシー派』と呼ばれ、ガレとならんで、ドーム兄弟などもこの地で活躍し日本でも彼らの作品は有名です。

 

ナンシー派は1901年の結成され「ナンシー派・美術産業地方同盟」という正式名称の団体でした。この同盟は2年後にパリにのりこみナンシー派はナンシーに本部を置く「東部フランスの美術産業団体」であり、その目的は、「ロレーヌ地方に芸術的手工芸の繁栄を及ぼそうとする」と宣言しました。

 

このナンシーでの作品はその当時、販売商品として大量生産されており一時期は数百人という従業員を抱える企業として発展しガレのそんな企業の責任者でありました。しかし、それでもこの当時の商品が今でも立派な芸術品として取り上げられていることは、このロレーヌ地域の技術の高さを物語っています。

 

1871年ごろからガレは、ガラス器に「ロレーヌ十字」と呼ばれる装飾をつけ、その後、ガレのイニシャル「E・G」と組み合わせて「ナンシーのエミール・ガレ」というサインとともに、商標として使用するようになりました。

 

 

サイン

ガレと中国ガラスの以外な関係

『歌麿』『北斎』を書いたパリの日本美術研究家であり、コレクターとして知られている、エドモンド・ゴンクール。彼は同時代の芸術家に多くの影響を与えいました。

ガレもその一人であり、ガレがはじめてゴングールの家に招待された時は、本当に感動したようです。後の彼の手紙からその感動の様子が世間に知らされています。

このとき、ゴングールの家でたくさんの中国ガラスの作品に接しており、同時期ガレはベルリンに旅行し、工芸博物館の300点以上にのぼる中国ガラス器の研究もしていました。

これ以降、ガレは中国ガラスにならって、色調豊かな色ガラスを何層にも被せかけ、表面を彫刻しさらに色調に深みを加える、典型的なガレ様式を完成していったのです。その後のパリ万国博覧会において、ガレの名声は確実なものとなっていきました。

花瓶

ガレと日本の関わり

前日も記したように、ガレの作品は人の心に訴えかける何かがある。

このことから、ガレの作品は『もの言うガラス』としてよく知られている。ガレは、過去の様式を参照・引用・合成しながら新しい様式化を志向し、アール・ヌーボーの波を作って行きました。

ガレも日本美術には親みをもち、たとえば日本の折り紙に着想をえて、陶器という素材で材質感を消した「軽み」を出し、そこににフランスの民謡やことわざを記した作品もだしています。

おりがみ

特にガレは日本の竹の表現にこころを奪われ、ガレはこう書いています。

『この軽快な伸び上がり、この大胆な曲線、蝶の群れのように動き回り、目に見えない葉柄のついた葉の雨と化して消えていくこの緑の滝を表現するには、日本人画家の才気ある必要とすることだろう。』

ガレの表現力の凄さ

ガレ花瓶

ガレ『過ぎ去った苦しい悩みの葉』(1900年)

あるガレを評論する人がこの壷を評して、

「この壷には、白雪が散る冬の寂しい戸外を表出したプラチナの白い箔が、全体の地紋として使われ、その上に悲しみの落ち葉、褐色の落ち葉、黄色い木葉がひらひらと舞い落ちていゆくさまが描かれている。ガラスの表面は、つやを消して静寂の情景を象徴し、ガラスの青灰色が、限りなく深い灰色の空のどこまでも続いてゆくひろがりを暗示する。」

たしかにそう言われれば、そんな風にも見えます!勿論どのように見ようが、どう感じようが、人それぞれの自由なのですが、この壷がすばらしく美しいと思う点では共通です。

ガレのすばらしさは、このように冷たいガラスという素材に、ガレの心を通した熱き魂の表現をみごとに表し、人それぞれの心に心地よい揺らぎを与えてくれるのです。

みなさんにはこの壷はどのように見えてるのでしょうか?

ガレののとって楽園とは

ガレは、30歳代にヨーロッパの各地を見て回っています。もちろん自然の懐に入るためです。

この時代、ヨーロッパでは『島』というとそれは楽園をイメージさせる傾向があり、地上の楽園は島に存在していました。

ガレ自身もイタリアのマドレ島での自然との出会いには、まるで地上の楽園を見ているようだと歓喜したと言われています。

こんな中から、ヨーロッパでは時代とともに庭に楽園のミニチュアをイメージするようになり、ガレも自身の内なる想像力の空間に楽園を求めて行ったのでした。

このような背景から、ガレのマニアックなほどの植物への執着と、心情的な思いこみに彩られた花々への強い思いを理解できるのではないでしょうか。

ガレ

エミールガレデッサン 

ガレの環境

ガレは風光明媚なナンシーの町で生まれ、大いなる自然の中で育ち、またガレ自身もこよなく自然を愛しました。

 

そんなガレの心のなかにある自然への強い愛着が、その後の彼の作品に素直に反映されています。

 

同時にガレは、日本的な動物・植物に対する『もののあわれ』をもちあわせ、彼の作品からは日本美術を見ているかのような印象を与えられます。

 

日本人に限らずガレの『自然を素直に作品に投影する』この作風は、世界中のガレ愛好家の心を今も強く掴んで、離しません。

 

ガレの書き残した文献には園芸に関する文がたくさん存在し、イングランドの庭園を訪ね歩いたり、イタリアのアルプス山脈に園芸研究の旅行などして報告文としてまとめています。

 

そのことは、ガレの並々ならぬ植物への関心の強さを示し、はっきりとガレの内なる芸術表現の原空間を見ることができます。


ガレ器

日本のおいて

フランス人から見ると、日本人はガレの作品に非常に興味があるように見えるらしいのです。

これは、ある種の嫌味のなのですが、日本人が何でもガレの作品を高値で買っていくので、とても高値の花になってしまっていると言う本国の事情もあるからです。

実際、ガレの名作が日本にたくさんあることも事実ですので仕方ありませんが。

ガレはデッサン力に優れ、特に草花鳥虫の造形を好んでガラスなどにデフォルトしています。これは日本人の『ものの哀れ』に通じるところがあり、日本画の其の表現にマッチする部分が多く、日本の心をつかんだことも事実なのです。